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ブルース・リーは1940年11月27日にアメリカ・サンフランシスコのチャイナタウンで李海泉という俳優のニ女三男の五人兄弟の4番目、次男として生まれました。当時父親の劇団がアメリカ公演中のため一家揃ってアメリカにいたのでした。本名は“李振藩”。“サンフランシスコを揺るがす男”という意味のこの名前は母親の命名です。英語名のブルースは出生届けに英語名が必要なため病院の看護婦が考えたもの。
その翌年、第二次世界大戦が勃発した年に一家は香港の九龍に戻ります。李の家の隣には俳優が住んでおり、リーと同年代の子がいてそれが小麒麟(ユニコーン・チャン)。二人は生涯の親友となります。
1947年、リーが6才の時、映画監督の兪亮が自分の新作映画『富貴浮雲』にリーの父李海泉を起用する為に出演依頼をしにリーの家へ訪れた際、丁度一緒にいたリーを見て気に入り、この映画の子役に抜擢されます。
その後、18才で渡米するまでの間に子役として数々の映画に出演しますが、その多くは自己の姿を反映した物−不良少年の役であったようです。
リーは快活で聡明ながらケンカに明け暮れる不良少年に育って行きます。その為学校も何度か転校。しかしある日自分より弱そうな相手にコテンパンにのされてしまいます。それが彼に拳法を始めさせるきっかけとなりました。
最初に習ったのが詠春拳。師匠から精神修養を積まなければいけないといわれても、単にケンカが強くなりたいだけの動機で聴かず、様々な拳法道場に通い拳法のテクニックを学んだり、ボクシング部に入ってチャンピオンになったりもします。
リーの不良化はますますエスカレートし、遂にはヤクザといざこざを起こして警察沙汰になったリーの身を案じた父親はリーをアメリカに渡らせる事にします。アメリカで生まれたリーは18才の時にアメリカに在住していればアメリカの国籍を取得することもできるからでした。事実2才年上の兄ピーターは既にアメリカに在住していました。
アメリカに渡ったリーは父親の友人の家にやっかいになり、得意のダンスを教えたりして小遣いを稼いだりしていましたが、やがてシアトルに移ります。香港で我が物顔でのし歩いていた彼もアメリカでは一介の中国人に過ぎず、いつか自分という存在をアメリカに認めさせてやると心に誓いつつ、中華料理店に住み込みで働きながらエジソン技術学校に通い始めます。
1962年、大学受験資格を得たリーはワシントン州立大学の哲学科に入学します。ある日クラスメイトに巧夫を教えたところ話題となり、学びたいという者が多く表れ、その内振藩塾という道場を開設ることにし、小さな新聞広告をだして一般から生徒を募り、学費の足しにます。そしてこの頃から自らの拳法のスタイル「截拳道」(ジー・クン・ドー)を形作って行きます。翌年には道場を移し拡大。このころにリー初の著書『基本中国拳法』を出版。
1964年、道場の生徒の友人で道場に出入りしていた後輩のリンダ・エメリーと1月に結婚。リンダの母から結婚を強く反対されたがリーが説得。生活の為、共に大学を中退する事にし、道場の経営に専念します。知り合いの武道家の勧めでオークランドに道場を開設、しかし経営は思うようにはいかなかったようです。
道場の名を売るため、その知り合いの紹介でロング・ビーチで行われた世界武術トーナメントのオープニングでダニー・イノサントと共にジー・クンドーの模範演舞をしますがこれが彼の転機となります。
当時中国人の役者を探していたTVのプロデューサーが世界武術トーナメントでの演舞に目を留めリーをオーディションし採用されます。この企画は結局お流れになりますが、結果、後に同じプロディーサーのTVシリーズ「グリーン・ホーネット」に出演することになります。
リーはダニー・イノサントと共に道場をロサンゼルスに移転。また65年に長男のブランドンが生まれています。
66年に初のアメリカ出演作「グリーン・ホーネット」で8年ぶりに役者としてカムバック。この作品自体は大して続きませんでしたが、それ以降数本のTVドラマにゲスト出演したり、映画『サイレンサー』シリーズなどの武術指導をするようになります。道場もハリウッドのスターに教えるようになり、スティーブ・マックイーンやジェームズ・コバーンなどが入門しています。
68年には長女のシャノンが誕生、また弟子の脚本家スターリング・シリファントやジェームズ・ガーナーが作った『かわいい女』でアメリカ映画に初出演します。
J・コバーンとS・シリファント等と映画を企画しますが潰れ、TVシリーズを企画するも役を取られたりとハリウッドの門が狭い事に限界を感じたリーは1970年に香港に帰る事を決意します。
親友の小麒麟の計らいで香港最大手の映画会社に自分を売り込みをするものの相手にされないリーでしたが(その後リーが売れ出すと手のひらを返しますがリーは相手にせず)、当時新しい映画会社を興した嘉禾電影(ゴールデン・ハーベスト)のプロデューサーがリーに興味を持ち、リーは彼と2本の出演契約をすることになります。
こうして71年に公開された香港復帰第一作『ドラゴン危機一発』はそれまでの記録を更新する大ヒットとなり、リーは一躍香港の時の人となります。
また翌年の第2作『ドラゴン怒りの鉄拳』で更に記録を更新。
72年、自らのプロダクション”協和電影”(コンコルド・プロダクション)を設立、第一作『ドラゴンへの道』を発表。これもまた記録を更新する大ヒットとなりました。
しかしこの頃からリーの体に異変が起き始めます。頭痛が頻発するようになり、撮影中に苦しさでうずくまることが多くなっていきます。
『死亡遊戯』の撮影を行った秋頃にはそれも悪化していきます。
73年ワーナーとの合作、発のハリウッド主演作『燃えよドラゴン』撮影時には彼の症状が更に悪化、頻発する頭痛に加え、昏倒やちょっとした事ですぐカッとして粗暴になるなどの人格異常をきたし脳腫瘍の典型的な症状を表し始めます。一度リーは病院にて精密検査を受けますが、この時医師はリーの脳腫瘍がかなり進行しており、もはや手遅れの状態であることを確認するも、リーには告げず。
73年7月20日、『燃えよドラゴン』の撮影の為中断していた『死亡遊戯』撮影再開の打ち合わせの為、プロデューサーのレイモンド・チョウと共に共演者の丁珮(ティン・ペイ)の自宅を訪れたリーはレイモンド・チョウが出演者のジョージ・レーゼンビーを迎えに行っている間に頭痛を訴え丁珮からアスピリンをもらい、彼女のベッドに横になりますが、レイモンド・チョウが戻り起こそうとしても起きず、意識不明のまま病院に運ばれそのまま死亡が確認されます。
享年32才、死因は兼ねてよりの脳腫瘍にアスピリンが刺激となっての内出血を起こしたためと発表されました。1月後に『燃えよドラゴン』が公開され一躍全世界のヒーローとなる事を知らずにあの世に行ってしまった彼の死でした。
Last Modified 27, May. 2001 takeboh@takeboh.com