ブルース・リー フィルモグラフィ
|
香港:コンコルドプロダクション(未完--1976年にダイジェスト編集版を一部公開)
制作:鄒文懐(レイモンド・チョウ)、脚本・監督:ブルース・リー、撮影:賀蘭山(西本正)
出演:ブルース・リー、ジェームズ・ティェン、チェン・ユアン、カリーム・アブドゥール・ジャバール、ダン・イノサント、池漢載、他
1972年〜73年にかけて製作が予定され、本来なら1974年に公開されていたであろう映画ですが、クライマックスのアクションシーンのみ撮影されたままリーの死によって未完となった作品ですね。
長い間その全容は謎でしたが、2000年に製作された2つの作品『G.O.D死亡的遊戯』及び『A
Warrior's Journey』(日本未公開)によってその全貌を表しました。
日本で製作された『G.O.D死亡的遊戯』は残されたフッテージを最も完全な形、最高のクオリティで見せてくれる映画で、一方米国で製作された『A
Warrior's Journey』は独自のフッテージ復元とブルース・リーの『死亡遊戯』という映画の謎を解き明かして行くドキュメンタリーですね。
この項では主に『A Warrior's Journey』による検証にしたがって本来ブルース・リーが作ろうとしていた『死亡遊戯』がどんな作品であったかを総括したいと思います。
| アウトライン |
『A Warrior's
Journey』のブルース・リー研究家、ジョン・リトルによって生前ブルース・リーが書き残していた12ページによる物語のスクリプトが発見されました。ジョン・リトル著の同名の本にこのブルース・リーによるラフなシナリオの全文が 掲載されています。→詳細
それによれば、ブルース・リーの演じる役はハイティェンという名の元無敗の格闘技チャンピオンという設定で、家族(妹と幼い弟)と共に東南アジアに旅行に行く為、香港の(当時の)啓徳空港の離陸を待つ飛行機の中から物語が始まります。
飛行機の給油の為に韓国の空港にいるときに家族が何者かに攫われ、ハイティェンも連行される。連れていかれた所は謎の組織のアジトで、組織のボスから家族を人質にある計画への参加を強要される。その計画とは韓国のある五重塔の最上階に保管されている「お宝」を持ち帰る事。しかしその塔の各階は屈強な番人によって守られていて容易く侵入は出来ない。そこでボスが集めた武道の達人達と共に塔の攻略をすることがハイティェンに課せられた任務。
こうしてブルース・リー演ずる主人公はジェームズ・ティェンやチェン・ユアン等と塔に赴くわけですね。
ところで、このオリジナルスクリプトでは、妹のユーミン(ん?)役はノラ・ミャオを想定していたようで、シナリオには箇所によってはダイレクトに“ノラ”と名指しで書かれています。撮影再開時にはこれがティン・ペイになるんでしょうかね?
またボスの名が「李國豪」となっているのが面白いですね。自分の息子のブランドンの名前を使ってしまうとは。
因みに『A Warrior's Journey』のヨーロッパ盤DVDには、このストーリー部分の再現ドラマも収録されています。
上に書いたように、このブルース・リーによるラフなシナリオの全文はジョンリトルの本に掲載されていますので一読をお薦めしておきます。(邦訳出て欲しいですね)
| 塔の攻略 |
フィルムとして残っている限りではリーはジェームズ・ティェンとチェン・ユアンが演じる二人の仲間と塔を登って行きます。
実際は他にも仲間がいて下の階もしくは塔の外で倒されていくことになるようですが。
ブルース・リーの遺したラフシナリオで登場する仲間は5人、
母親の手術費用の為にこの話に乗ったというホアン・チャ・ダ
自分の武術を実践したいという米国人
腕自慢をしたいというHsie Yuan(チェン・ユアン)
アル中の泥棒という設定の李昆
そして現在のアジアチャンピオンであるという設定のジェームズ・ティェン
また、『A Warrior's Journey』の本に掲載されている、リー自筆による塔攻略の構想スケッチでは別の名前も載っています。
こちらではチェン・ユアンに該当する役がサモ・ハン、その他にカーター・ワン(黄家達)、トニー・リュウ(劉永)が味方の一員としてリストされていますがもう一つの塔のスケッチではトニー・リュウの名前は上から消されています。最終的にはトニーの役回りはアメリカ人(ジョージ・レーゼンビー?)に変更になるのでしょうか。
仲間、というか競争者が決して友好的ではないところが面白いですね。
組織のボスにそれぞれお金で雇われたからでしょうか、それとも「お宝」を最初に手にした者にボーナスが与えられるとでも言われたのでしょうか、他の仲間を押しのけて抜け駆けしてまで我先に進もうとします。
| 番人達 |
グランド・フロアでは5〜10人の空手家(ヤベタローじゃなくって、、)の集団が待ち受けていて乱闘状態になるそうな。
『A Warrior's Journey』の再現ドラマではリーの構想していた泥棒の李昆は錠前屋として登場しますが、泥棒に武芸のスキルがあるわけではなし、ジョン・リトルの解釈では鍵開け要員として闘いには加わらず表で待っているというような役回りになっています。闘いが終わってリーが外の人と会話するシーンの相手はこの李昆なのでしょうか。
1階を守る番人としては『ドラゴンへの道』にも出演していた黄仁植(ウォン・インシク)が予定されていたそうです。
蹴り技の達人(キックボクサー?)とか。彼に関しては野外で池漢載と試合?をしているシーンが撮影されていますが、塔での闘いのシーンは撮影されずに終わりました。また野外のシーンも現在はフィルムが行方不明という事で残念な事ですね。
ブルース・リーのラフ・スケッチではこの黄仁植との闘いでカーター・ワンが脱落するとなっています。
2階の「豹殿」を守る番人は当初はブルース・リーの実生活での武術パートナーでもあったターキー木村を予定していたようです。
彼の使う技は蟷螂拳。
ターキー木村のインタビューによれば、リーから出演依頼の電話があったのが1972年の10月頃とのこと。
彼は「もう私は老いて動けない」とブルース・リーの依頼を一旦は断ろうとしたのですが、「絶対君が必要だ」とブルース・リーが強引に飛行機のチケットまで送って来て強制参加(この映画のボス並みですね(^_^;))させらる事になったとか。
しかし、丁度その頃『燃えよドラゴン』製作の為に『死亡遊戯』製作が中断されたお陰でこれは実現せずに終わる事になりますが、1973年の9月に予定されていた撮影再開に向けて再びオファされていたそうです。
リーの構想スケッチではここで倒されるのはトニー・リュウと記載されていますが、その後のもう一つのスケッチでは上に書いた様にトニー・リュウの名が上から消されている状態になっているので、ここで倒されるのは最終的にはジョージ・レーゼンビーのアメリカ人ということになるでしょうか。
3階の「虎殿」を守るのはダン・イノサント演じるフィリピンの棒術使い。ここからが実際に残されているフィルムですね。
猪突猛進型のチェン・ユアンが太い棍棒で突進するがすぐにやられてしまう、というシーンが撮影されたものの、現在では失われているのは残念でしょうか。
ブルース・リーとダン・イノダントとのヌンチャク振り回し合戦(?)は見せ場ですね。シーン自体も兎に角長いシーンですね。
4階「龍殿」を守る番人は韓国ハプキドーの達人役は池漢載ですね。池漢載は実際にも当時ハプキドー7段の名手で、ハプキドーの模範演武として国際空手トーナメントに招かれた際、その大会の優勝者であるテコンドーの武道家ジョーン・リー(ブルース・リーの友人でもあり俳優でもある)からブルース・リーを紹介されたとの事。その時の池漢載の演武を見たリーがその後池がハプキドーを教えていた赴任地のアンドリュース空軍基地まで訪ねて来て親交を深めた事がきっかけとなり、『死亡遊戯』の依頼が来たという事でした。
5階のリーとジャバールの戦いのシーンは映画としてはクライマックスでありながら、実際には一番最初に撮影された事はよく知られていることです。
ジャバールが香港に遊びに来るということでそこでジャバールが出るシーンから始めようということでした。ジャバールの使う格闘技の技は全く未知の物。
ジャバールのインタビューによれば、初日のラッシュを見たらリーとジャバールの動きが速すぎてフィルムに動きが捉えきれていず、見るほうも何がなんだか判らない動きに見えることが判り、その後はわざと動作を遅くするように努めて撮影したそうです。本人達はまるで撮影の本番ではなく段取りのテストをしているような気分だったとか。
| 闘いの後 |
ジャバールを倒したリーは外に向かって何事か叫ぶと、そのままよろよろともと来た階段を下りて行きます。
本来の目的であったはずの「お宝」はどうなったのでしょうか?上には登らなかったのでしょうか?
ジェームズ・ティェンがジャバールとの闘いの最中、上の階に上がろうとしてジャバールに叩き落とされるシーンがありますが、という事は「お宝」はその上の階にあったはず。ではリーは?実はまだ撮影されてなかった上の階に上るシーンも予定されていたのでしょうか?
しかし、残されたフィルムを見る限りでは、ジャバールを倒したリーはジャバールを押しのけてよろよろと立ち上がるとそのまま窓へと向かい上のシーンに繋がって行きます。このシーンからではそのまま下っていくように思えますね。
リー自身によるこのシーンのシナリオには以下の様に書かれています。
“階段からのトップショット、カリームが倒れていて、ブルースが座り込んでいる。
彼は振り返ると階段を見上げる。
疲れた様子で立ち上がるとよろめきながらジェームズ(の死体)の方へ行き、そして階下に降りて行く。”
実際に撮影されたフィルムの行動だと『A
Warrior's Journey』ではリーが外の者へと「登って来い」と言うと外から「お前の役目は終わった。降りて来い」というやり取りになっています。
その後の製作の過程で上へ行くシーンが追加撮影される事も有りえたかもしれませんが、現存するフィルムでは降りていくだけです。
さて、降りていった後はどうなったのでしょうね。『A
Warrior's Journey』付属の再現ドラマでは主人公はよろよろと塔を出て仲間に抱きかかえられながら去って行き、アジトで待っているボスにパトカーのサイレンが近づいてくる一方で主人公は空港で家族と再会する、といった感じに描かれていますが、これは『WJ』作者のジョン・リトルの創作です。リー自身によるスクリプトでは単に「逮捕」「飛行機」とシーンの大まかな流れしか書かれていません。
ブルース・リーの一つ前の初監督作品『ドラゴンへの道』を観ると闘いの後はさっさと物語を終結させてENDマークを出したいという感じの終わり方をしているようにも見受けられますが、このスクリプトの書かれ方からも案外『ドラゴンへの道』同様、自分の見せたい見せ場が終わったら、後は簡単に終わらせていたのかもしれません。
| 結局のところ『死亡遊戯』という映画は何だったのか |
『死亡遊戯』でリーが描きたかった事、それは何だったのでしょうか?
簡単に「ジークンドーこそ最高」と言ってしまえばミもフタもありませんが、ブルース・リーの自己信念に直結する武道哲学であったことは言うまでもありません。
『死亡遊戯』の劇中、ブルース・リーの書いたシナリオでは、ジェームズ・ティェンがリーに「武道家らしくない恰好だな」という皮肉にリーが「恰好と武道家の真価は関係ないだろ?」と言い返すくだりがありますが、これがリーが黄色いトラックスーツを纏う理由であり、それは拳法着など流派に捕らわれたものは必要ないという意味合いだといいます。
ブルース・リーの信念として持ちつづけていた座右の銘に『無法を以って有法と成す、無限を以って有限と成す』という言葉があります。
これはブルース・リーが追求していた事であり、ジークンドーとしての理念でもあるわけです。
『死亡遊戯』と同時期に撮影された映画『燃えよドラゴン』でもこの理念が語られていますね。
物語冒頭のリーと師匠の会話で、師の「最高の技とは何か?」との問いに対してリーが「技を持たぬ事です」と答えるくだりです。
これはブルース・リーがジークンドーを提唱することになる要因でもありますが、伝統的な武術の流派は自己の流派をいわばブランドとしてとらわれ過ぎていることが自己を狭めていることになると考えて、流派にとらわれない伝統に拘らない現実的で本質的なものを追求しようとしました。
ピエール・バートン・ショーでのインタビュー(The
Lost Interview)でリーはこう話しています:「私はもう型というものを信じません。つまり中国式の闘い方とか日本式の闘い方とかいったものを信じないという事です。」
自分が対峙したもう一人の人の動きに対してどう反応するかは、型どうり決まったものではない、反応の仕方は無数にあるはずだ。ある状況下に於いてそれに対する答えが一つしかないということをブルース・リーは嫌ったとリンダ・リー・キャドウェルは語ります。
型に捕われない方法が型を制する、『無法を以って有法と成す』ですね。
前作『ドラゴンへの道』でのコロシアムの対決シーンでは、最初は型どおりの方法で闘う主人公は劣勢に立たされますが、型を捨て状況に臨機応変に応じた戦法をとることにより自分を有利に導きます。この理念をさらに押し進めたのが『死亡遊戯』であると言えるでしょうか。
『死亡遊戯』のフィリピン棒術との闘いのシーンでは、型通りの攻撃をするチェン・ユアンたちは直ぐ負かされます。それに対してリーはパオ(竹竿?)で相手に向かい合います。パオのしなやかさは臨機応変な適応性の象徴でもありました。そして「無形が有形を制す」という理念のもとにダン・イノサント、池漢載と制していくわけです。
そして最後、リーが対峙することになる相手は流派の無い未知の相手です。無形が有形を制することは『ドラゴンへの道』でも語られていますが、では無形が無形と対峙したら?(実はジークンドーVSジークンドー?)というところが『道』より一歩突っ込んだところでしょうか。ジャバールとの闘いのシーンに於いて、なかなか突破口を見出せない主人公は意外な相手の弱点に気づき、そこに活路を見出します。この場合光に弱いということですね。
無形が有形を制す事は確実である、しかし相手も柔軟だったら?あとは如何に状況に柔軟に対応できるかというその柔軟性をどうやって最大限引き出してゆくのかという事なのでしょうか。このあたりがブルース・リーが映画で表現したかった事だとリンダ夫人は言います。
不幸にして映画はリーの生前に完成される事はありませんでしたが、その結果、クライマックスシーンのみが残されているという事実は、逆にこの映画の本質を際立たせて見せてくれる事にもなったように思います。
それはブルース・リーがこの映画によって語りたかったテーマが、撮影された闘いのシーンに集約されているからであり、生前撮影されなかった部分、生前完成していたとして追加撮影されたドラマ部分は、リーが描きたかったこのクライマックスシーンを観客に見せる為の外装あり、それがどんなストーリーであれ、(クライマックスが改変されない限り)訴えたいテーマは変わらない、極論してしまえばドラマがなくてもクライマックスシーンがあればリーの言いたい事は充分に活きてくるという事が言えるのではないかと思えるのです。
これらの事を踏まえて今一度ブルース・リーのオリジナル『死亡遊戯』を見直してみると、映画というエンターテインメントを通してブルース・リーが表現したかったものが見えてくると思います。
Last Modified 22,Sep.2002 takeboh@takeboh.com